1973-04-18 第71回国会 衆議院 法務委員会 第20号
○青柳委員 まさにその名の示すとおり実務研修の実務にあるわけですが、一般教養として松本判事を講師に選んだということのように結果的にはなっております。
○青柳委員 まさにその名の示すとおり実務研修の実務にあるわけですが、一般教養として松本判事を講師に選んだということのように結果的にはなっております。
○青柳委員 松本判事が何かそういう特別講義をするのにふさわしい力量を持っておられる、経験や知識を持っておられるということの評価はどこから出てきたのか、私どもにはよくわかりませんが、この裁判官の過去の経歴なんというものについて、本人自身も戦時中中国におった、そして敗戦で帰ってきて裁判官になったのだというようなことをこの講話の中で述べておりますけれども、お調べになったことはありますか。
したがいまして、この経歴でもおわかりいただけますように、飯守前裁判官が鹿児島地裁所長をなさっておりました当時に、松本判事も同じ鹿児島地裁に勤務されておったわけでございます。終わりのころでございますが、松本判事が鹿児島地裁の上席裁判官、所長代行の裁判官という地位にもあられたわけでございます。
そうしておるうちに、直ちにその停止が又解除されて、又收容されたということを聞きましたので、聞いたのか、新聞で見ましたのか、それで裁判長の松本判事に私面会に行きまして、保釈を取消されたようですね、どういう理由でお取消になつたのですかということを聞きました。
野崎陽之助 石原治子 高木八郎菊地甚一 五月二十四日 小峯忠生 望月作平 大谷菊夫大沢善太郎 吉田チヨ 五月二十六日 午前 元林善治 眞対民治 岡戸竹治矢次看守 午後 庄司新三郎 黒羽関司 越川警部補 五月二十八日 午前 高木檢事 馬場次席檢事 午後 川中公毅判事 桝田渉外判事樋口渉外課長 五月三十一日 最高裁判所へ出張取調 松本判事
私は松本判事に二回会つただけで、公判には一回出ただけしかありません。当時殆んど奈良へ行つておりまして、そうして第一回の公判のときには、証人、証拠の準備のために弁護人が続行を求められて、暫く期日未定で、第二回以後は私に期日の通知がなかつたのです。
松本判事殿に運動したということは聽きませんですな。
ところが、今度はその後の尾津事件の経過になりますが、尾津事件は、只今申しましたように松本判事、一松判事、伊東判事補を以て構成する東京地方を裁判所刑事第四部でその審理に当り、昭和二十二年九月十二日の第十四回公判期日に弁論を終結して、判決の言渡しの期日は同月二十三日と、指定されたのですが、檢事からは更に九月二十一日附を以て余罪の取調をするから判決の言渡しを延期して貰いたいという申出があつて、公判期日は追
この会議の結果、この調査は裁判長松本判事と一松判事の二人が担当することになつておりましたが、翌十二日調査に出かける直前に、松本判事は、この事件とは全然関係のない別な事柄で裁判長として裁判所長に対して提出する書類を直ぐ作成しなければならないという事情が起りましたために、一松判事が一人拘置所に行きまして、野崎医師に会いまして、尾津の病状を訊ねましたところ、野崎医師は、「拘禁の継続については十分な考慮を必要